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星の王子さま

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作品情報

あらすじ

サハラ砂漠に不時着した孤独な飛行士と,「ほんとうのこと」しか知りたがらない純粋な星の王子さまとのふれあいを描いた永遠の名作.初版本に基づき挿絵を改めた新しいエディション.

作品詳細情報

タイトル:
星の王子さま
ジャンル:
児童児童文庫
著者:
内藤濯サン=テグジュペリ
出版社:
岩波書店
掲載誌:
ファイルサイズ:
15MB
配信方式:
ストリーミング、ダウンロード

作品レビュー

[ 2011-12-20 ]

『星の王子さま』は1943年にアメリカで発表された物語だ。著者のサン=テグジュペリは、戦火のただ中にあったフランスからニューヨークへと亡命中だった。そのため『星の王子さま』の成立には、サン=テグジュペリのフランス(とそこにいる友人)への個人的な思いが作用しているのは間違いない。

 けれどもそれは『星の王子さま』を『聖書』や『資本論』に並ぶ世界的ベストセラーとなった理由では決してない。サン=テグジュペリが何者かを知らない人も引きつけるような、別びなにかこそ『星の王子さま』が読まれる理由に違いない。そしてその理由の一つにはきっと「自分が自分であることの根拠」の問題があるんじゃないだろうか。
 自分はほかの誰でもなく自分である。そんなことは人から言われなくても百も承知。とはわかっていても、それでもふと不安になることはある。ここで働いている自分や、ここで恋人と過ごしている自分が、ほかの誰かだったらどうか。それでもきっと世間は困らない。自分は別に自分でなくてもいいのではないか――。

 物語の前半、カリカチュアされた大人たちに対するいわば“ツッコミ”としてゆるぎない地位にいる王子さまは、しかし7番目の星、地球を訪れた途端、「自分はほかの誰でもなく自分である」ことに対して自信を失ってしまう。
 具体的なきっかけは、生い茂るバラたちを見てしまったこと。王子さまは「ぼくは、この世に、たった一つという、めずらしい花を持っているつもりだった。ところが、じつは、あたり前のバラの花を、一つ持っているきりだった」とショックを受ける。

 自分は特別な一人ではなく、大勢のなかのありきたりの一人に過ぎない。自分が誰でもいい「取り替え可能な存在」であるという事実に王子さまは打ちのめされる。
 そんな王子さまを救うのはキツネだ。キツネはあの有名なセリフを王子さまにいう。
「だけど、あんたが、おれを飼いならすと(略)あんたは、おれにとって、この世でたったひとりのひとになるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ……」
 人間は誰も「取り替え可能な存在」である。しかし、お互いと関係し合うことで「取り替え可能な存在」から「取り替え不可能な存在」へと変わることができる。キツネはこのような流れの中で王子さまと親しくなるのだ。

 ここで「飼いならす/飼いならされる」関係を築く理由が特に語られていないことは重要だ。これがもし「キツネがやさしいかったから」「王子さまがかわいかったから」となった途端に、「じゃあ。やさしければキツネでいのか」「かわいければ王子さまでなくてもいいのか」と、「取り替え不可能な理由」があっと言う間に「取り替え可能な理由」へとひっくり返ってしまう。
 だから人間が「取り替え不可能な存在」であることを確認するには、ただただ偶然に出会うことが必要なのだ。思えば王子さまにとってかけがえのないバラも「どこからか飛んできた種」が芽をふいた存在だった。

 と、ここまででも『星の王子さま』が今読んでもなお魅力的である理由の一端には触れていると思うのだが、この「取り替え不可能性」は飛行士の“ぼく”と王子さまの間で、さらにもう一段深く語り直されているのだ。

 『星の王子さま』の中で大人と子供の関係は特別な意味を持っている。

 『星の王子さま』といえば、レオン・ウェルトへの献辞にある「おとなは、だれも、子どもだった」というフレーズや、続く「“象を飲み込んだうわばみの絵”を理解しない大人」といったエピソードを思い出す人も多いだろう。そこから世間一般的には大人=不純、子供=純真という構図こそ『星の王子さま』の重要な“テーマ”として考えられている。

 そうした考えが広まった理由の一つには、岩波版の翻訳者、内藤濯があとがきに書いた「この物語を書いたサン=テグジュペリのねらいは、つまるところ、おとなというおとなに、かつての童心を取り戻させて、この世をもっと息苦しくなくしようとしたところにあるのでしょう。さもなければ、いつまでも子供ごころを失わずにいるおとなこそ、ほんとうのおとなであることを、子供にもおとなにも知らそうというところにあるのでしょう」という理念童心主義的内容も大いにあるだろう。

 だが、果たして本当にそうなのだろうか。泥を脅すように汚れを取り除いてやれば、大人は童心を取り戻すことができるのだろうか? ちょっと違うような気がする。
 むしろ大人と子供のあいだには、飛び越えることができない差があると考えたほうが実際には近いんじゃないだろうか。

 たとえば、社会の中で働いている大人は自分が「取り替え可能」だと自覚しているし、そもそも大人である以上「取り替え可能な存在」から降りてしまうことはできない。一方、子供はそういう自覚とは無縁だ。だから「取り替え不可能」な存在でいることができる。タンパク質が熱で変質してその構造を変えてしまうように、「取り替え可能」な大人と「取り替え不可能」子供の間には、根本的な変化が横たわっている。
 けれども、なのだ。

 けれども「取り替え可能」な大人のまま生きていることもまた寂しいことだ。たとえば大人になった“ぼく”は「親身になって話をするあいてが、まるきり見つからずに、ひとりきりで暮らし」、砂漠から生還しても自分にとって大事な王子さまのことは“友人”たちに明かすこともしない。そして自分が王子さまから教えてもらったことを「おとなたちには、だれにも、それがどんなにだいじなことか、けっしてわかりっこないでしょう」と呟くだけなのだ。

 『星の王子さま』の世界では、大人同士の“友情”は決して自分の「取り替え不可能性」を保証するものではない。だからこそ「取り替え可能」な大人は、子供の「取り替え不可能」を必要とするのである。そこで王子さまが必要となるのだ。

 それは、童心を取り戻すとか忘れないとかいうことではない。“ぼく”が王子さまと出会い、別れるということは、「取り替え可能な存在」である自分の不毛さに耐えるため、既に失われてしまった、自分の子供時代の「取り替え不可能性」を、仮初めに蘇らせるということにほかならないのだ。

 「象を飲み込んだうわばみの絵」を即座にそれと理解した王子さまは、子供時代の“ぼく”同一人物に違いない。だが子供時代の“僕”は“ぼく”が大人になるにつれて失われてしまった。王子さまは、“ぼく”に会う前にキツネと出会い「取り替え不可能な存在となる」というエピソードは、“子供時代のぼく”=王子さまの復活の儀式だったのだろう。こうして考えると原題が「星の」を欠いた「小さな王子さま」である意味も見えてくる。

 そしてついに“ぼく”の中に王子さまが蘇る。“僕”は王子さまをかけがえのない存在だと自覚して次のように語る。

「まるで、こわれやすい宝を、手に持っているようでした。地球の上に、これよりこわれやすいものは、なにもないようにさえ、感じられるのでした」

 このこわれやすさこそ、今ここにいる王子さまが仮初めの存在であることを示している。そして“ぼく”は王子さまを灯火に例える。
「ともし火は、大切にしましょう。風がさっと吹いてきたら、その火が消えるかもしれませんからね……」
 その灯火は、「取り替え可能」な人生という不毛を生きるための、消えやすいけれどもとても大切な灯火なのである。

 ここまできてようやく、冒頭の献辞の意味がよく理解できるようになったとは思わないだろうか。
「そのおとなの人は、むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、その本をささげたいと思う。おとなは、だれもはじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない)」
 これは純真さを取り戻せというイデオローグではなく、「取り替え可能」な人生を耐えながら歩むにあたっての支えの言葉なのだ。

 以上、「取り替え可能性/不可能性」を軸に読解してみたが、これらの要素が『星の王子さま』から読みとれることについては、やはり時代の背景を無視することはできない。サン=テグジュペリが生まれ、生きた20世紀前半という時代は人間を戦力・労働力といった“資源”のひとつとして見る見方が急激に普及した時代だった。さらにいうと、第二次世界大戦における、無名の兵士の大量死とユダヤ人弾圧も直接的な影響を及ぼしただろう。
 そしてこれら20世紀の枠組みの中で今なお、人々が生きている以上、『星の王子さま』もまた愛され続けるのだ。

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