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学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康天下統一の謎

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作品情報

あらすじ

明智光秀を討った秀吉が、信長の重臣であった柴田勝家を破って後継者になった――教科書によく載っている記述ですが、ここにはとても重要な事実が抜け落ちています。それは、本能寺の変で信長の血筋が絶えたわけではなく、信長の血を受け継いだ織田家の人間が複数いたにもかかわらず、家臣の秀吉が権力を受け継いだ理由です。天下分け目の「関ヶ原の戦い」は、たった1日で終わった――誰もが知る事実ですが、なぜ「1日」で終わってしまったかの理由はあまり知られていません。大河ドラマなどで何度も扱われているにもかかわらず、日本人は意外に戦国のことを知らないのです。本書では、「中国大返しはなぜ成功したのか」「なぜ関ヶ原の戦いは1日で終わったのか」「豊臣秀吉と徳川家康は、いかにして天下を奪い取ったのか」「三英傑が目指した天下人とは?」など、知っているようで実は知らない戦国史を井沢元彦独自の視点で見直します。

作品詳細情報

タイトル:
学校では教えてくれない戦国史の授業 秀吉・家康天下統一の謎
ジャンル:
心理・思想・歴史歴史・地理日本史
著者:
井沢元彦
出版社:
PHP研究所
掲載誌:
ファイルサイズ:
9.9MB
配信方式:
ストリーミング、ダウンロード

作品レビュー

[ 2017-11-5 ]

10年以上前から愛読している、逆説の日本史の最新単行本が出版された(2017.11)ようですが、本屋さんの店頭で迷った挙句、この本を先に読むことにしました。

というのも目次を見て、秀吉が織田家からどのような手順で天下を取ったのかが、この本では詳細に解説されていると思われたからでした。久しぶりの大阪南部への出張で新幹線の乗車時間も少し長め、往復で楽しく読むことができました。

信長の失敗を秀吉が修正して引き継ぎ、秀吉の失敗を参考にして家康が引き継ぎ、家康自体も失敗をしてそれが明治維新へつながった、歴史は一つに繋がっていることを改めて感じさせられた本でした。

以下は気になったポイントです。

・織田軍の最大の特徴は、その多くがお金で雇った傭兵だった、農民兵と違い季節を問わず軍を動かせるメリットはあるが、同時に主君に対する忠誠心が薄い。本能寺の変の時、傭兵たちはわれ先にと逃げ出した(p22)

・幸運は恵まれることより、きちんと活かすことの方が、実は何倍も難しい。それをやったのが秀吉(p27)

・秀吉は自身が足軽出身だったので、足軽の辛さがわかっていた。そこで装備は外して別便(船便)で送り、自分たちは可能な限り身軽になって走る、という普通の武将には思いつかない方法を思いついた(p29)

・光秀が思った以上に兵を集められなかったのは、信長の死んだ証拠である「首」をあげられなかったこと、信長の三男・信孝が秀吉についてしまい、大義名分が秀吉にあったことにある(p32)

・秀吉は、京都の名刹・大徳寺で信長の豪華絢爛な葬儀を行った、このときの喪主は信長の四男で秀吉の養子となっていた、於二丸秀勝であった(p46)

・秀吉は、次男の信雄が三男の信孝に対して、清須会議で決めたことを速やかに履行しないのは約定違反だと言わせて、秀吉は信雄の命を受けるというかたちで岐阜城を攻めた。長浜城に柴田勝家がいれば、このようなことはなかっただろう。岐阜城はあっけなく落とされ、三法師は奪われ、長浜城をも取り戻した、柴田勝豊を寝返らせることで(p50)

・賤ヶ岳の戦いでは、前田利家の戦線離脱により拮抗していた戦いのバランスを崩し、佐久間盛政軍を敗走へ追い込んだ、東大の敷地を提供した大名が前田家であり、東大と前田家は深いつながりがある(p56、63)

・賤ヶ岳の戦いで負けた柴田勝家の妻と、浅井長政三姉妹は、秀吉が救っている話は有名だが、実はこのとき、この機に乗じて織田信孝を死に追いやっていることはあまり知られていない。このとき秀吉は、信雄の命令だ、というかたちをとって信孝に切腹を命じた(p64)

・大坂城の初代城主は織田信長、二代目は池田恒興、秀吉は三代目である(p68)

・信雄の家老・重臣達3名を秀吉に内通しているとして殺してしまった、これは信雄軍は1万五千の兵を動かせなくなったことに相当する、これは信雄が動かせた兵(三万)の半分に相当する(p75)

・関白とは、藤原氏が天皇家から実権を奪うために創設した地位であり官職ではない、摂政という役職は朝廷にあtった。天皇の代理ができる権限を天皇が成人した後も行使できるとしたのが関白であった。関白は五摂家の嫡男は皆なれた、終身ではないので二年程度で次の家に位を譲るのが暗黙の決まりとなっていた(p93)

・猶子(ゆうし)とは、養子の一種である、財産を継ぐ権利を持たない養子であるが、地位は継げる(p92)

・姓は自らの血筋を示すもの、苗字はもともとは住んでいる場所を示すものであった、五摂家は「近衛・鷹司・九条・二条・一条」と異なる苗字で区別されるが、彼らの姓はすべて同じ「藤原」である、秀吉は「豊臣」姓を天皇から賜り、既存の姓「源」「平」「藤原」「橘」よりも上位の姓に位置づけることで、関白につけるのは「豊臣」に限るとした(p93)

・太政大臣までは天皇の臣下なので「閣下」であるが、関白は準皇族的地位なので「殿下」となる、太閤殿下となる(p93)

・日本ではふんだんに取れる硫黄は、中国では貴重品であった、キリシタン大名は硫黄を輸出して、貴重な硝石を得ていた(p98)

・征伐という言葉を使えるのは、野蛮な悪い奴らをやっつけるという意味があり、使えるのは天皇のみ。しかし関白も天皇の権限をすべて代行できるので使える(p99)

・信長のイベントは「見せてやるぞ」という公開型イベント、秀吉のイベントは、一般参加型を目指している。初めてのイベントが、北野大茶湯と呼ばれるもの(p115)

・以前と比べて秀吉の天下が良かったと思わせた源泉は、庶民に楽しみを与え、使える人々にはお金を惜しみなく与えるという秀吉の政治手法である。金と楽しかった思い出が、秀吉のやった悪辣なことを全て覆い隠してしまった(p119)

・北条を滅ぼした後、家康の地(三河・遠江・駿河)を与え、尾張を返納させようとした、これを断った信雄は大名の座から追放され、剃髪した後に秀吉の相伴衆となった(p124)

・江戸が都市に向かない理由として、1)防衛上の問題(江戸エリアは意外にデコボコ)、2)大きな川がすくなく水が少ない、このために歴代の政権が江戸に本拠を置かなかった、そのため小石川(神田)、玉川、本所、青山、三田、千川と6つの上水がつくられた(p129、130)

・秀勝という名前は、石松丸の正式名である、最初に養子にした信長四男、その後の養子にした秀吉甥が「小吉秀勝」、長浜時代に秀吉に実子がいて、早世したその子の名前が「秀勝」だったと考えられる(p140)

・辻斬りは、一種の基礎訓練、試し斬り、であった、こうした辻斬りに対するイメージが大きく変わったのは、実は秀吉の時代から。大名同士が直接武力で問題解決をすることを禁じる「惣無事令」が出された。しかし殺生行為が罪悪だという意識が浸透したのは、五代将軍・綱吉による「生類憐みの令」が出されてから(p146)

・秀次は多くの妻を娶っていたが、ほとんどが大名の子女であった、その一族が全て殺されたので、その恨みは忘れられなかった、関ケ原の戦いのときに下された東軍西軍、どちらにつくかの判断に大きく影響した、この事件は豊臣政権を弱体化させた(p147)

・秀吉は、朝鮮国が日本の対馬を治める大名、宗氏の支配下にあると思っていたが、実際は宗氏は昔から日本と朝鮮半島の仲介をしていたのみ(p151)

・秀吉は唐入りを行ったのか、答えは天下を統一して平和になってしまったから、仕事がなくなってしまった40万もの専業兵士に対する雇用対策(p154、157)

・世界史を見れば対外侵略戦争はめずらしくない、アレキサンダー大王、ローマカエサル、モンゴル・ジンギスカン、ナポレオンも同様(p156)

・秀吉は、この「唐入り」で、豊臣政権の最大の弱点である「徳川家康」の存在感を小さなものにしようとしていた、勝った時のことを考えて、まだ領地の大きくない、加藤清正・小西行長を中心に遠征軍を組織した(p159、161)

・実行段階で、兵站線をきちんと確保していなかったのは失敗の原因、さらに徳川家康・黒田官兵衛という日本最強部隊を使わなかったことも敗因の一つ(p164)

・文禄の役や、唐入りの過程で余儀なくされた戦いであったが、慶長の役の目的は、裏切った朝鮮を懲らしめるための報復戦であった(p169)

・高台院(ねね)が家康に西の丸を明け渡したということは、秀吉のつくりあげた政権の後継者として秀頼よりも家康を支持したことになる(p178)

・大谷吉継が指摘した三成の欠点、1)言葉遣いが横柄、2)大将としての人望や器がない、3)決断力のなさ(p184)

・西軍最強部隊とは、筑後の国・柳川の領主である、立花宗成率いる軍、唐入りの時も何万もの明軍を相手に大活躍している(p193)

・軍事才能がなく、経験も少なかった三成は、戦局を見て引くべきタイミングを判断することも、素早く引くという決断もできなかった(p206)

・家康は関が原の戦いにおいて、奥平貞治という目付け役を小早川隊に派遣していた、かつて織田信雄と組んだときに目付を置かなかったことで、むざむざと講和を結ばれた経験があるため(p213)

・長門の国に首府があることから長州藩と名乗るようになるが、萩藩が正式名称、人間の心理は不思議で、4分の1(120→36)にされるよりも、いっそゼロにされた方がまだ諦めがつく。石高が4分の1になったことで、皆が恨みをもった、初代藩主を悪く言えないので、すべては家康が悪いことになった、この恨みが幕末における倒幕エネルギーとなった(p223)

・同様に島津藩も、本領を安堵されたが、島津家として的中突破のときにさんざん叩かれた恨みは忘れなかった、毎年旧暦9月15日に敵中突破した日を記念する行事を行ってきた。現在は10月の第四土日となった(p224)

・秀吉が家康を潰せなかったことが豊臣家滅亡に繋がったように、家康が毛利・島津を潰せなかったことが、江戸幕府滅亡に繋がった。ライバルを徹底的につぶせなかったことが大失敗(p225)

・秀吉は関白という権威を得て織田家の天下を乗っ取った、家康は鎌倉幕府以来の伝統、武家の棟梁の立場である「征夷大将軍」になる道を選んだ。これは天皇が武家の棟梁であることを認めた職である(p230)

・関ケ原の戦い後に、家康は豊臣秀吉の直轄地を取っている、そこは金山・銀山、貿易港で、石高には反映されない「金の卵」が含まれていた(p233)

・もし大坂夏の陣の前に家康が病死していたら、二代将軍秀忠と豊臣家の間で、何等かの妥協が成立していたかもしれない(p264)

・幕府という名称は、遠征軍が遠征地で設営する仮設基地を語源としている、鎌倉幕府は当初東日本のみで、西は朝廷が治めていた、後鳥羽上皇が承久の乱で敗れて、支配領域が西に広がった(p270)

・織田信長時点までは、支配体制は、朝廷=関白、か幕府=将軍、しかなかった。そんななかで信長は、それらを超えた天下人という概念を考えた(p270)

・天皇が絶対なのは、天皇が神の子孫であるから、本願寺の顕如は阿弥陀如来の代理人であるから強かった、それらを超越する存在として、「天下人」になる必要があった(p273)

・徳川家康が、それを成功させた、東照大権現という神になることに成功した、秀吉は当初「新八幡」として祀られることを望んでいた。明治以降になって「大明神」の称号をもらって、豊国大明神を祭神とする「豊国神社」が再建された(p274、275、276)

・権現とは、仏教と神道が融合した思想で、天台宗の僧侶、天海僧正により主張された(p277)

・天皇家の祖神が「アマテラス大神」なのに対して、将軍家の祖神となった家康の神号は、「アズマテラス大権現=東照大権現」である、アマテラスからアズマテラスへの国譲りという新たな神学が完成している、東海道53次というのは、この世から観音様の住む浄土までに53の宿駅があるという伝説に基づく、江戸という「今の都=この世」と、京都という「過去の都=浄土」を結ぶ道を暗示している、天皇の都である京都は、もはや過去の世界であるという意味がこめられている(p278、280)

・天才とは、それまで誰もやったことがないことを、思いつき、取り合えずやってみる人である、そういう意味では信長は天才であった、あまりにも突拍子のないことを思いつくので失敗した、でもその失敗があったからこそ、失敗をクリアした家康がいた。(p282)

・天皇家という存在を超えられなかったことが、幕末の尊王攘夷運動、王政復古、そして徳川幕府の崩壊につながった(p283)

2017年11月11日作成

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