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作品レビュー

[ 2013-09-08 ]

アメリカインディアン、アラスカなどの先住民の暮らしを「土地と暮らす」と表現し、現代の私たちの暮らしは「土地と切り離されている」と表現する。この本は2013年マザーのイベントの露店で購入。キャンプは、「土地と暮らす」暮らしといえると思う。土地と切り離された暮らしがいかにそれたけで摩耗するものか、根本的な動物としての必要なものが欠落している暮らしだと感じる。だからこそ、定期的に、山へ川へ、平原へ行き、「土地」を感じる必要があるのかもしれない。それは確実に私たちに力をくれるものだから。
※筆者の表現について…冗長なくどい表現力が多く、美しい自然が文体から浮かび上がるというよりは、くどい表現が鼻につき残念。巻末の漫画とのコラボは面白い。

[ 2012-01-20 ]

これは新たな視点で世界を見るきっかけになった。ものすごい世界観だった。

私の身近では、マクロビオティックやオーガニック、スローライフに視点をおく傾向がある。だけど、そもそも、どうしてそうすることが必要であり、その根源にあるものが一体何かは混沌としていた。
それが、まさかアメリカ・インディアンの人々に関連しているなんて!

私が住んでいる世界は、「都市」であり「土地」という観念はない。しかし、その「土地」は、アイデンティティとみずからの存在の「意味」をも含有するものであるのだ。

ものすごく印象的だったのは、人間における自己定義のメカニズムについて。それは、差異化と同一化の二つ。差異化ばかりを意識してた。でも、同一化することで、紋様ができる。

[ 2013-05-24 ]

アメリカの広大な土地に住む、いくつものインディアンの部族たちに伝わる神話や伝承、そしてそれらに基づく生活、生き方の哲学、世界観。土地に密着し、土地に溶け込むからこそ生まれる、土地と人間が食い違いを起こさないような考え方に満ちているように思えました。
本当に、インディアンの人たちは、自然をリスペクトしているし、自然を損なってまで利益を得ようとするような、欲の皮の突っ張った考え方をしない人たちだと思います(そういう人たちが多いと思う)。

[ 2011-08-14 ]

『BRUTUS』の自然観特集に触発されて読み始めた。”世界が違って見えるようになること、世界が別のかたちで想像できるようになることが、「旅」の唯一の定義であり、約束なのだから。”という一文にグッときて購入決定。ちょっと難しそうだけど、巻末にマンガも収録されていて楽しみ。

[ 2012-07-06 ]

書き出しの、未開民族もほぼ携帯電話を持っていて、グローバル化、「人類全てがお互いの存在を知っており、関与しようと思えば関われる状態」にあることは凄いことだと思った。影響を及ぼし合い、ある意味均質化してゆくことは避けられない。
その中で、土地に根ざした民族文化を守ることが喫緊の課題であるという主張は説得力を持つ。
特に、歴史的に見ても数十年の文明社会の維持のために、数千年積み上げられてきた土地の記憶を捨て去ることは、相変わらず土地や風土は存在するだけに、違和感を感じるし、文明が自然に適応するためでなく、頭でっかちにバランスを欠いて進んできた危うさを感じざるを得ない。
インディアンの世界観が、現在形で、母なる大地、相似形としての動物、植物、父としての太陽として語られ、純粋に、というより生物学的意味合いにおいて納得しながら読み進めた。これは現代人の限界かもしれない。
インディアンにとっての生活の場である土地の圧倒的リアリティの中での世界観はよそからは理解し難いかもしれないが、グローバル化によってこの世界観がどう変化するのか、我々はどう参照するのか、によって土地の記憶が博物館に陳列されるか、現在進行形の生きた思想になるかが変わってくると思った。
祈りや儀式は状況をリセットして現実や世界観と一体化するための手続きかもしれないと思った。ヒトは慣れるとすぐ忘れてしまうから。

[ 2011-09-03 ]

『シートン動物記』で知られるシートンの話が序章に書かれている。まだ原初の野生を保っていたカナダ東部の森林地帯と西部の大草原で育ったシートンは、1902年にウッドクラフト・インディアン協会という少年組織をつくる。

シートンは、自分をとりまく圧倒的な「大地」の存在に気づき、そこにむかしから住んできた人々の生き方をみごとだと思い、自分もあんなふうになろうと決意する。シートンは、自分自身をひとりのインディアンに作りかえようとしたのだという。

▼こうした、まるで無根拠な、「非本質的」な転身によってのみ、われわれの生き方のほんとうに深い変革はもたらされるのではないか。個人としても、社会としても。「模倣」の重要性を真剣に考えないかぎり、ぼくらは「文化」という現象の本質にも、「思想」という力の核心にも、けっして到達することができない。(p.24)

この本の著者のひとり、管啓次郎は、シートンのように「このエッセー自体が、ぼくにとっての、「インディアンになる試み」そのもの」だという。大地の神聖さ、「土地」とは何か、動物、植物、太陽とは何かが書かれていく。

「土地を知ることだけが、生存をささえる。」
土地の人々は、それぞれの住む区域で、数百年ときには数千年にわたって経験的に確立されてきた「土地との関係」を、その秘密とともに、実践的な知識として継承してきた。けれど、ヨーロッパ型の国家は「土地との関係」をまだ一度として真剣に考えるにいたっていない。

▼ぼくらは…すべての物質が商品化された都市の末端に自分を接続することで、かろうじて生きている。…都市/貨幣/商品の巨大な複合に組みこまれ、その中で自分の資産に見合ったニッチ(生態的地位)を見出し、そこで駆け足で生涯をすり抜けてゆくのが、現在のわれわれ(ほぼ)全員の運命だ。(pp.42-43)

生きるとはどういうことか。何のためか。
遊牧民族カイオワの世界では、語ることと祈ることはひとつ。かれらは祈るために生きる。日々の行動を律する規則、それ自体が祈り。

植物を育てることが祈り。
動物を狩ることが祈り。
太陽や月を見上げることが祈り。
水を汲むことが祈り。
風を感じることが祈り。

人間は土地の一部をなし、土地の一部であるヒトが関係性の全体を尊重し、その気持ちを表すのが祈り。

「人間であること」を、管啓次郎はこう書いている─「関係性が織りなす存在としての人間、誕生にはじまり死で終わるつかのまのあいだヒトであるにすぎない自分という存在、だが個の生涯や身体を超えて時空のいろいろな方向に延長されてゆく可能性のある私」(pp.85-86)。そして、人間化されていない大地の美しさにふれるとき、人はあらためて「人間であること」を考えるのではないかと。

管啓次郎の名を知ったのは、『1995年1月・神戸』に引用されていた文章がもと。その引用されていた文章が入っているというので『トロピカル・ゴシップ』を読み、ふと気づいたら、今年の上半期、日経夕刊の「プロムナード」欄でこの人が週に一度コラムを書いていた。この本は、図書館の新着コーナーに面陳されてて手にとった。

この本のなかで、平原インディアンのあいだでは、互いに言葉が通じない部族同士がコミュニケーションを図るための、手話体系ができあがっていた、という話が出てきた。この手話では、「ポーニー族」と本物の「狼」が、おなじ動作によって表される。(その動作の説明を読むと、日本手話の「大阪」にちょっと似てる気がする) 「言葉が通じない同士」の使う「手話体系」。この見方は、手話をやはり言語として見てないんかなと思った。

[ 2011-08-30 ]

安宅さんが日経ビジネスで取材をうけていてその流れでしった以下のページからこの著者の存在を知りました。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110808/221985/

山登りをしたり雪山で滑ったりしてる中で、この数年、自分なりに人と土地(大地)をめぐる関係についてかんがえてきました。
一方で、仕事をしているなかで最もホットなテーマはソーシャルメディア。ヴァーチャル空間がソーシャルメディアで充実することがいまは「一つの革命」としてとらえられていますがそれはほんとうに、人の「幸せ」につながるのだろうか?という疑問意識もあるわけです。インターネットは生活を便利にしたけどヒトを幸せにしてるんだろうかというのはちょっと自信がない。

土地(大地)とヒトの結びつきがあまりに希薄になってきたけどそれってよくないのじゃないか?環境破壊の原因は土地とヒトの結びつきの希薄化にあるのではないか?なんてかんがえていたのですがすばらしく上手に言語化されてる本です。

著者がインティアンの邦への旅の本を書いた動機「大地がいまも途方もなく美しく、その美しさによってのみ人は本当に生きる力を与えられるに違いないという気持」10

シートン動物記のシートンは移民。ショーニー族のテクセムーに憧れた。移住してきた自分をとりまく圧倒的な大地の存在に気がつき、そこに昔からすんできた人々の生き方を見事だと思い、その土地の人々の伝説的指導者を自らの英雄と定め、彼をまね、自分もあんな風になろうと決意した24

日本で大都市への極端な人口集中がはじまったのは第二次大戦後。2.3世代のあいだに、われわれの大部分は土地との絆を喪失し、大中小の都市に「移住者」ないしは一種の「異邦人」として暮らすことになった。ぼくはどこの土地にも愛着を覚えることも貴族を感じることもないままに成人し、その裏面としてどこの土地も本当に知ることなく、土地に対する責任を感じることもなく今に至る40

ぼくは土地を知らない。これは土に対するノスタルジアのせいではない。ぼくは「血」や「大地」への帰還を説くつもりはない。ただ具体的にそのとき自分が暮らす土地土地へのこの無知が、個人においては心と身体からあるべき力を奪い、集合的にみたなら「世界」に「地球」にその本来の豊かさを失わせ、その輝きを急速にあせさせているように思うだけだ。どんなものであれ無知は、必ず何かを殺す。そして無知は、その殺害は破壊に気づくことすらない。42

イロクォイ族では部族の会議が開かれるたびに、人々はまず自分たちの義務を次のような言葉で誓い合うのであった。「何事を取り決めるにあたっても、われわれの決定が7世代にわたっておよぼすことになる影響をよく考えなくてはならない」44

「ぼくははっとした。エレメンタルな力。つまり、地、水、火、風の4大に鋭敏であることは、生物の存在の根本なのに、現代都市での生活はわれわれにそれを忘れさせる。都市という緩衝装置の中にいる限り、別にそれでも生きていけるのだ」48

土地を語らず始まりを知らず、みずからの存在の意味を心得ない、それが「土着」のライフスタイルをすてた現在のわれわれの生活だろう。存在というか人生の意味をただ漠然と考えるとき、ぼくらのほとんどはそれを人間関係に基づいて考えていると思う。しかしこれはごく近代的態度でしかないだろう。もともと人間の思考ははるかに土に近い場所で構想されていたのではないだろうか?49

オクラホマ:カイオワ族の伝統詩
人間の秘密。おれは貧しいので、生きているすべてのもののために祈る」
彼らの世界では人生の意味は揺るぎない。語るという仕事があり語ることと祈ることは一体だった。土地を共有するすべての生命のために祈ること、生きた土地そのものを励ますこと。祈りとは神頼みではなく自分たちの行動を律するもの。
人間はなんのために生きるのか?かれならば迷わず、「祈るため」と答えただろう。50

土地とは何か?土地への所属は3つのカタチ。1:食物、水などの生きる為の物質的根拠を与えてくれる物質的所属 2.自分の先祖が死に土に還っていった場所。霊的所属。3:土地は美しいから。審美的所属。62

「物質的」「霊的」「審美的」な土地への所属。自分自身にたいして問いを発してもいいだろう。きみは自分をつくりあげている物質の故郷をしっているか? きみは祖霊たちが宿る場所をそれと指し示すことができるか。きみはきみが生活圏とする土地のいくつかの美しいポイントに回帰的にたたずむことができるか? この3つの問いにはいとこたえられたとき、人はその土地のネイティブといえる。63

アニミズムとは実践的にいって正しい態度なのだ、とはいってもいいだろう。現在の世界の最大の問題は生物多様性の破壊であり、人間の自己規制としての生物多様性の維持にむかう可能性のある思想はすべて多かれすくなかれアニミズム、の色彩を帯びる70

母なる地球という言い方には、しかし大きな落とし穴がある。地球全体をよくイメージすることは絶対にできないからだ。72

自分の肉眼で風景を見、その風の音を聴き、肌はその場所の光にあらわれつつ、「いま/ここ」で「この土地は美しい」と簡単のうちにつぶやく、そんな経験の可能性は閉ざされていない。心から美しいと思い、鳥肌がたつほどの情動の揺れを経験し、ここでは何一つ変えてはならないことを納得し、その土地をよくしる土地の人々への新たな深い尊敬を覚えるようになる81

小規模な木々の伐採や漁労は、人が人となって以来、つねにおこなわれてきた。しかし、それらが土地ごとでの消費をこえ、貨幣という抽象性と結びついて急激に資源を消費する大規模な「林業」「漁業」となったとき、土地や海が宿す復元力はすさまじい速さで失われていく。88


詩人、比較文学者でアメリカインディアンに造詣の深いかたです。

[ 2011-06-28 ]

わたしたちが、自然を畏れ、敬い、その恵みに感謝することの大切さを忘れてしまって、いったいどのくらい経つでしょう?現代社会が如何に仮想的で、実態を伴わないものであるかということに、改めて気づかされる1冊でした。
なにかを決めるとき、7世代あとの人々のことを考え、その人々に対し責任を負うものでなければならないという考えが、原野で暮らすインディアンの基盤にあったということに驚かされました。
人間もまた自然の一部であり、この世界の片隅で生かしてもらっているという事実があるにもかかわらず、わたしたちはあまりに多くのものを破壊し、捨て去り、置き忘れてきてしまいました。自然を支配し、利用しようという思い上がった態度に気づいていながら、すでにもう後戻りできないところまで来てしまいました。
素朴でありながら、深く真理を見通したような、彼らの思想に似たものを、かつてはわたしたちも持ち合わせていたはずです。手遅れかもしれませんが、いまいちど考えてみる機会になりました。